再会。

この仕事をしていると、以前「お会いした」物件に再会することがよくあります。

 

ほとんど全ての物件において、

・いつ頃

・いくらで

・どんな状態

だったかを覚えいます。

2、3年前のときもあれば、10年が経過していることもあります。

 

誰かが手を入れて、建物の状態が良くなっているときもあれば、よる年波に任せっきりの物件もあります。

 

そんなとき、登記簿謄本を見てひとり思いを馳せます。

 

・物件の動いた時期

・所有していた期間

・抵当権の設定内容および抵当権者

 

それが業者だった場合、その時期においてその業者がどの程度の夢を見て、どの程度の成功を納めたのか、あるいは夢破れたのかを見ています。

 

内容によっては、夢が「破れかかった」ものもありますが、そんなときは極力、引導を渡すようにしています。

 

そうしないことには、どこかの業者が見た「夢の続き」を見ることになりますし、あらかたオチの見えた夢の続きを見るわけにはいかないので仕方ありません。


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もちろん、売主の希望額というものがありますので、すぐに「じゃあそれで」とはなりませんが、もうしばらくして、それでダメなら話が戻ってくるだろう、くらいに思っています。

 

その金額で「買いたい」のではなく、

この金額なら「買えます」。

 

って感じでしょうか。

 

なかには、そんな業者の物件を新たな業者が買ってあげているときも、ままありますが、売主にしてみればまさに胴上げものです。

 

無事に逃げられたうえに、おそらく瑕疵担保免責(契約不適合免責)でしょうから。

 

なので、仲介さんはよく

 

「業物(業者売主)でもやります?」

 

と聞いてきたりもするのですが、つまるところそういうことなので、

 

「金額次第ではやります」

 

と答えています。

 

それこそリーマンショックのようなクラッシュになると、

 

「いくらで売る」というよりも

「抵当権抹消」が最優先事項になりますので。

 

そんなときは絶好の買場ではあるのですが、金融情勢が厳しいからこそ「抵当権抹消」が最優先事項になるわけで、新たに融資を引こうとしても相当厳しいのは言わずもがなです。

 

もちろん、そんな時を見据えてキャッシュポジションを厚くしているところにしてみればチャンス到来で、ここぞとばかりに仕込んでいきます。

 

後はきちんと管理しながら「時」を待てばいいだけですので。

 

そう考えると、買取り再販が短期に回転しているときが「一番注意しなければいけない時期」ということになります。

 

とは言え、上手く行ってもいるのを指を加えてただ見てるといのも、なかなか難しいもので、ついついその急流に飛び乗りたくなる気持ちもよく分かります。

 

ですので、「いくらで買う」のかはそのときの相場を考慮すればいいので、さほど難しいとは思わないのですが、それ以上に気を配るというか、鼻を利かせなければいけないのは、

 

いま買って大丈夫?

 

ってことだと思っています。

 

ただこればかりは過ぎてみないと答え合わせが出来ないので、そんなときは数々の荒波(平成バブル、ファンドバブル、コロナバブル←いまココ)を乗り越えてきた、先輩社長たちの動向を見て参考にしています。

 

もちろん全てが成功するわけではありませんし、コロナ前にキャッシュを厚くして「早まった」と言っているひともいれば、コロナ後に「つい買ってしまった」と言っている社長もいます。

 

なので、いくら経験を積んで注意を払っても最後のひと越えはどうしても「えいやぁ」になってしまいますが、ただの評論家なり傍観者ならいざ知らず、実業としてやっていく上ではどうしても必要な「度胸」になるかと思います。

 

きちんと勉強なさった個人の方でも、どうしても不安はつきないと思いますが、みなさんその一線を乗り越えた上で資産形成なさっているのだと思います。

 

改めて文字にすると、我ながらなんともスリリングな仕事をしているんだなーと思うのですが、長いことこの仕事をしているところをみると、満更そういったことが嫌いではないのかもしれません。

 

それでも、怖さを知った上での「えいやぁ」は勇気だと思っていますが、怖さを知らない上での「えいやぁ」は蛮勇だと思っています。


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変異。

一向に収まる気配のないコロナですが、終息を願うというよりは諦めに似た空気まで漂っています。

 

今の第五波が本当の第一波なんじゃないか。

 

という記事まで目にするようになって、辟易とした気持ちは募るばかりです。

 

まだ第一波のときに、テレビの中継でパリに住む作家の辻仁成さんが、そのときにおけるパリの状況を伝える上で使った言葉がずっと頭にこびりついております。

 

もう元の世界には戻れないんです。

 

当時は第一波の状況を指してそう言って要るんだろうと思ったのですが、何となくそれが呪詛のように頭に残って、「波」を重ねるごとに、

 

本当に戻れないのかもしれない。

 

と思うようになってきました。

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そうは言っても、人類の歴史はずっと疫病との戦いだったとも言われるわけで、消えてなりなりはいないものの、いずれ「大騒ぎの必要」はなくなるものと考えております。

 

それでも、これまでのパンデミックを振り替えると、それが起因となって大きなパラダイス・シフトが起きているのも確かで、生活様式や、覇権国家の衰退や交代が歴史上繰り返していることを考えると、やはり

 

元の世界には戻れない。

 

のかもしれません。

 

もちろんこの先の世界がどうなって行くかは私には知る術もありませんが、その「新世界」なるものが安定期に入るまでの、あれやこれやには心構えをしておかないといけないのかもしれません。

 

個人的には物理と同じで、いずれは落ち着くとこに落ち着くとは思っていますが、その「落ち着く場所」を見つけるまでの、右往左往はきっと避けられないのではないでしょう。

 

日常生活における「落ち着く場所」とは、「住まい」になるのでしょうが、そんな不安定な情勢下では、余計な変化を求めないひとが大半かと思いますので、賃貸市場においての「移動」は少なくなるものと考えます。

 

現に入居して下さってる方に対してはなるたけ長く住んで頂ける努力は必要だと思いますし、しばらく空室が続いている部屋に関しては「これまでに拘らずに」、条件を軟化させてでも入居して頂いた方がいいように思います。

 

もちろん収益物件である以上、賃料を落とせばダイレクトに販売価格に影響する(利回が下落ちる)ので下げたくはないと思いますが、いま買い進めている方の大半は「そういった事情も織り込める」ひとたちばかりなので、無駄に想定利回を上げておく意味はあまり意味はないと思います。

 

であれば、持っている間に「たとえ下げて」でも家賃が入ってくる方がよほどいいのではないでしょうか。

 

もちろん、きちんと約束を守れるひとに入ってもらうためにも、入居審査はとても重要です。

 

コロナ禍にしても、家賃にしても、つい「これまで」や「それまで」に拘ってしまうのは、なにも私だけではないのでしょうが、コロナが必死に「変異」して生き残りをかけているように、もしかしたら私たちも(それ以上に)「変異」していかないといけないのかもしれません。

 

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キラキラ。

ひと昔前、キラキラ系大家なるものがはびこっていましたが、いまはどうなのでしょうか。

 

キラキラ系の大家とは「不動産投資によってこんなにもきらびやかな日々を送っているの、と公然と宣伝しているひとたち」のことなのですが、なかにはそれを餌に「初心者たち」を誘き寄せては、物件を紹介し、少なからぬ額のバック・マージンを業者からせしめている輩も多数おりました。

 

融資環境が厳しくなったので、一時ほどではないのでしょうが、とてもいい属性だったり、かなりの金融資産をお持ちのひとには相変わらず融資は出るので、まだ一定数はいるのでしょう。

 

twitterなんかを見ていても、それらしき者が厚かましく宣伝をしているようなので、絶滅までにはほど遠い状況かと思います。

 

現に身銭を切って不動産投資を順調に進められている方々はそんなものは一顧だにしないのでしょうが、一度冷えた市況がまた盛り上がってきたときにまたぞろ吊られてしまうひとが現れるはずなので実に厄介です。

 

もちろん、先輩大家として親身に力を貸しているひともいらっしゃいますが、みんながみんなそういうひととは限らないのでどうぞお気をつけ下さい。

 

まだ「撒き餌」に効果があった頃には、SNSで知り合った「99%の他人」だけにとどまらず、学生時代の友達や職場の同僚なんかまで引き込んで実に節操のない状況を繰り返し、自分の物件の「出口」に使っているものもおりました。

 

99%の他人ならいいっこともないのですが、それなりに縁のあったひとたちにまでよくそんなことが出来るな、と私には不思議でならなかったのですが、そういったひとたちにはどうってことないのかもしれません。

 

不動産業者に対する世間の信頼は決して高くはないのでしょうが、なにもそれは「業者」だけに限ったことではないので、注意しないといけません。「非業者」ということで一定の安心感が生まれてしまうのかも知れませんが、やつらはそこをも見越してやってくるので決して警戒は怠れません。

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これはたまたまなのかもしれませんが、私のまわりで実際に成功なさっているいる個人の投資家さんは、見るからに、聞くからに「キラキラ」なんかしていません。

皆さんとても堅実に物件を買い進めています。

 

とっくに専業大家でやっていけるひとでも従来の仕事をちゃんと続けているひともたくさんいます。

 

もちろんその方が融資に有利ということもあるのでしょうが、「不労所得」によってFIREできたとしても「時間を持て余したくない」と思ってらっしゃるのかもしれません。

 

そういった観点から言ってもやはり「仕事」はお金のためだけではないのでしょう。

 

空いた時間にしたいことが明確なひとはいいですが、現に早々にFIREしたはいいものの、有り余る時間をもて余しているひともたくさんいます。

 

個人的にはくる日もくる日もNetflixを見続けるような日常はとても堪えられませんけどね。

 

昔からよく言われているように、

 

暇だとろくなことをしない。

 

というのはやはり正しいように思います。

少なくとも私には間違いなく合致します。

 

そんな暇を持て余したひとのなかから「キラキラ大家」は現れると私は思っているのですが、それが人助けになっているならまだしも、「カモ」を探すような行為は本当に止めて頂きたい。

 

無駄に「被害者を出さない」という聞こえのいいことだけではなく、正直、見ていてイライラします。

 

誰もが「発信者」となれる現代においては、やり様によってはいかようにも出来るはずで、それをもって「投資は自己責任」というのは、ただの逃口上でしかありません。

 

たまに物上げ(物件を買わせて頂く行為)をしていると、明確に高飛車なそんな輩に出会すのですが、私はそれとなく「実績を誉めて」早々に切り上げるようにします。

 

いい物件があったら紹介してよ的なことも言われるのですが、そういった人たちに真っ先に「いい物件」を紹介したことはこれまで一度もありません。

 

どうか、私の見えないところで勝手にキラキラしてて下さい。

 

と切に願うばかりです。


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ショートケーキの苺。

炎上商法と呼ばれているものが世間を騒がせています。仮に意図したものだったとしてもそれが「商法」になり得るのかはよく分かりません。私には「一通り稼いだので、好き勝手言わせて」と言っているようにしか思えませんでした。

 

メンタリストDaiGo氏の以下の発言についてです。

※すでに知っている方は太字部分を飛ばして下さい。

 

「僕は生活保護の人たちにお金を払うために税金を納めてるんじゃない。生活保護の人に食わせる金があるんだったら猫を救ってほしい。生活保護の人が生きてても僕は別に得しないけどさ、猫は生きてれば得なんで」

「自分にとって必要のない命は、僕にとって軽い。だからホームレスの命はどうでもいい。言っちゃ悪いけど、どちらかというホームレスっていない方がよくない?正直。 邪魔だしさ、プラスになんないしさ、臭いしさ、治安悪くなるしさ、いない方がいいじゃん」 「社会にそぐわない人間を処刑して生きてきてる。犯罪者を殺すのだって同じ」

「社会的に排除すべきと言っているわけではない」

「制度自体を批判したいわけじゃない」

「社会全体ではないが、個人としては命の優劣がある」

「迷惑をかけてる人もいる」

「究極の選択をしたら、いらない存在になる」

「残念ながら僕を叩いている人よりも、僕は彼らのことを保護してますよ」

「何でかって言うと、税金めちゃくちゃ払ってるから(…)こんな炎上に参加している人に聞きますけど、じゃあホームレスとか生活保護の人たちに寄付しました?たくさん税金払いました?その人たちのために炊き出しとか定期的にやったりしているんですか?そういう人は僕のことを叩けると思います」

「僕は個人的に思うので、そう言っただけなので、別に謝罪するべきことではないと思いますよ。みんなも言うでしょ?『あいつ死んだ方がいいのに』とか言うでしょ。同じよ」 「個人の意見なので扇動してるわけではない」

「言っちゃいけないっていう法律ないですよ」

「僕、危険思想持ってるんで真に受けないでくださいね」


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…まさに世も末というか、資本主義社会もここに至れりって感じですね。

 

影響力を持っているひとが「真に受けないで」って、『じゃあ公に言わなきゃいいじゃん』って話だと思いますが、それを公にしてしまうところを見るとよほど自己顕示欲が強いのでしょう。

 

多額の税金を納めていることに間違いはないのでしょうが、だからって、生活保護受給者やホームレスのひとたちの命はどうなってもいいと言い放つ権利はどこにもなくて、もしそんな権利があるのであれば、

 

税金を納めなくてもいい変わりに消えてくれるんですか?

 

ってことも成立してしまいます。

いくら多額の税金と引き換えであっても命は差し出さないでしょう。なんのための納税免除かわからなくなってしまいますから。

 

そもそも人なんて物理的存在であると同時に相対的存在でしかないと思うんですよね。

「私」がいるから「あなた」がいる。

「あなた」がいるから「私」がいる。

「こんな僕」がいるから「そんなあなた」がいる。

「そんなあなた」がいるから「こんな僕」がいる。

 

哲学的な観点から言えば、

「いなくなってほしい人」がいなくなると、今の「あなた」も存在し得なくなってしまいます。メンタリストなる職業の方に哲学は不要なのでしょうか。

 

働き蟻の理論でもよく出てきますよね、

「働かない一匹を摘まみ出しても、残りの蟻なから働かない蟻が一匹現れる」って。

 

必要だからそこにいるのであって、ひとりのホームレスがいなくなっても、もうひとりが現れるし、ひとりのメンタリストがいなくなっても、もうひとりが現れるだけです。

 

DaiGo氏本人は自分のことを「余人に代えがたい」と思っているのかも知れませんが、原理としてそれは誰にでも当てはまることで、それを強く思ってしまうのは、ありあまる自惚れと自己顕示欲でしかありません。

 

よく、不動産投資で成功したひとのなかでも主に税金の観点から海外に移住する人がいますが、正直あまり賛同出来ません。

 

もちろん、当人の努力や運を否定するわけではないのですが、

 

それを実現できる土俵がすでにあった

 

という観点はないのでしょうか?

 

徴兵もなければ、戦争もなく、飢餓もなく、義務教育もあれば、経済活動の自由もあって、世界屈指のインフラ設備もある。

 

私だって税金は安いに越したことはないし、その使い道に憤りを覚えることもあります。けれど「本人の努力と能力(もし本当にあれば)」を盾に海外へ逃げて行くというのは、ショートケーキの苺だけを食べているのとどこがどう違うのでしょうか?

 

「苺」があってはじめて「ショートケーキ」になりもすれば、その土台があってはじめて「苺」は「ショートケーキの苺」になれるのです。

 

もしも日本中から「ショートケーキの苺」がなくなってしまうのであれば、頑張って「次の苺」になるか、「次の苺」が生まれる土壌を作るしかないと思っています。


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蜂。

先日のお墓参りで蜂に刺されました。

 

幸い、近くに水場があったので水溶性の蜂の毒を摘まみ出し、コロナですっかり有名になったアナフィラキシー(そのショック状態から死に至ることもありますし、蜂に刺されて命を落とす方の大半はこれだそうです)にはならなかったものの、ぼっこりと腫れあがってしました。

 

やつらは、墓石の前にある線香置き場のうわ場に棲みかを構え、よかれと思って線香を置いた私の手の甲をまるでミシンのように連打してきたのです。

 

瞬間、一族総出で攻撃してきたのかと思ったのですが、どうやらアシナガバチだったようで、もしかしたらそれは一匹だったのかもしれません。

 

スズメバチや蜜蜂とは違い、命と引き換えに針を差し込まないアシナガバチは、針を埋め込まれる心配はないものの、連打対応型となっております。


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思えば、何年か前にも同じところに巣を作っていたのを見かけたことがあったのですが、もちろんそんなことを覚えているわけもなくいともあっさりと攻撃されてしまいました。

 

よほど、住環境がいいのか、はたまた先祖から引き継いでいる知恵なのかは分かりませんが、来年以降も注意しないといけないのかもしれません。

たぶん忘れていると思いますが。

 

そんな蜂の巣を遠巻きに見ていたら、人間となんら変わりがないんだと思えてきました。

 

一族で作り上げた家に現れた闖入者を必死に攻撃しているわけですから。

 

これは後から知ったことですが、アシナガバチはたった一匹の女王蜂が巣作りと産卵をし、その女王蜂は夏を前に死んでしまい孵化した蜂たちが働き蜂となって巣を完成させて、また新しい女王蜂が誕生するそうです。

 

なんとも女系な家族なのですが、他の蜂たちがみんな死んだ秋の暮れに、一匹の女王蜂だけが越冬のために飛び立って行くらしく、ブンブンと群れているように見えてずいぶんと孤高な生き物なんだと思い知らされました。

 

だからと言って刺された事実に変わりはないのですが、近くにある朽ちかけた民家を見ていたら、こっちに新たな女王蜂が現れることはもうないんだろうかと少し切ない気分になりました。

 

人口減少と一極集中はもう何十年も前から言われていることですが、その全てを解決することは出来ませんが、せめて一室、いやもう一室と、もぬけの殻となったその空間を「人」で充たしていきたいものです。

 

蜂の場合はどうか知りませんが、人の場合は一人一室と決まっているわけではないのですから。


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お盆。

連休最終日、お盆を前にお墓参りをしてきました。

 

コロナ禍ということもあり、ほとんど家とお墓を車で移動しただけではありますが、職業柄どうしても共同住宅などに目がいってしまいます。

 

吊るされたカーテンなどからおおよその稼働率を割り出しては、

 

オーナーさんは、とても困っているか、もうどうでもよくなっているかのどちらかなのだろう。

 

と想像してしまいます。

 

ご先祖様から引き継いだ物件で、「家賃が入れば儲けもの」的な大家さんであれば何も問題はないのでしょうが、「(賃借人が)入れば(利回りが)ブン回る」と鼻息荒く融資をひいたオーナーさんであればたまったもんじゃありません。

 

投資は自己責任であることに異論はないのですが、キャベツをひとつ買うのとは訳が違うので「売り手」の責任もその手法によっては(道義的には)免れないでしょう。

 

ただ、いくら道義的な責任は免れないとは言え、経済的な責任はどうしてもオーナーさんにきてしまいますので、やはり購入は慎重になさった方がいいと思います。

当たり前ですが。

 

それでも「融資環境がよく、バンバン売れている状況」を目の当たりにしてしまうとつい焦ってしまうのもとてもよく理解出来ます。

 

流動性(換金性)の高い株式などですと、じっくり待っていられない性分の私としては、まったく人ごとではありません。

 

そういう意味においては、相対的に流動性の低い不動産というのは私には合っているのかもしれません。

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よく聞く、「出口(売却)で不動産投資の成否が確定する」という話もまったくもってその通りだと思います。

下手をすれば、所有している間に頂戴した家賃を全て吐き出す可能性や損切りをさせられる可能性があるわけですから。

 

そう考えると、個人的には

 

(シビアな出口を想定した)入口でほとんど成否が決まる。

 

と言って差し支えがないと思っております。

 

長い事この仕事をしていると、つまるところ

 

いつ買ったのか

 

というのが一番大きく、そして強力なファクターなんだと痛感させられるからです。

 

とは言え、会社ですと数字を作らないといけませんので、「買わないわけにいかない」という状況が生まれます。そしてそのように買われた物件は、今度は「売らないといけない」という物件に生まれ変わり、その会社や、その手法によっては、また「新たな被害者」を生んでしまうのです。

 

なんだか堂々巡りのような気がしないでもないですが、会社ならいざ知らず個人のかたは(特殊な事情がない限り)「買わないわけにはいかない」ということもないでしょうから、

 

待てるものなら時を待つ

 

というのが結果的には成功への近道なのかもしれません。

 

それでも売主さんの色んな事情から「いい物件がゼロ」になることはありませんので、体力(経済力)を温存しながら、きちんと物件を見定めたうえで購入するのはもちろんアリだとは思います。

 

ひと昔前とは違い、「いま」購入している方はそのへんの見定めがきちんと出来るひとたちだとは思いますが、それでも将来にわたって「もうちょっと待てばよかった」と思う可能性を完全に排除することは出来ません。

 

買いの大きなファクターが「時」である以上、やはり売りに関しても「時」が重要になってくるのは当然といば当然なのでしょう。

 

幼い頃、祖母の亡骸を目にして、

 

不自然に静止している

 

と思ったことをよく憶えています。

生きていることは、「動く」ことなのでしょうし、そういった定めのなかにあっては「待つ」という行為はもしかしたらとても難しいことなのかもしれません。

それが生物学的な問題なのか、あるいは単なる性分のかは知りませんが私の場合はおそらく性分によるものなのでしょう。


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世代交代。

オリンピックで若いアスリートの活躍を見るにつけ、世代交代を痛感されられます。

 

若いときに「若さの素晴らしさ」を説かれてもいまいちピンとこなかったのですが、歳を重ねるにつれて、本当に素晴らしいことなんだと理解させられます。

 

個人的には(いろいろ大変だった記憶も明確に残っているので)「あの頃に戻りたい」とは決して思わないのですが、それでもその素晴らしさには何も変わりがありません。

 

そこには「知る」という体感が多く関わっているような気がします。

 

日々、いろんなことを経験して物事を「知って」いくのでしょうが、知ることによって何かを回避出来たり、知ることによって何かの足枷にもなったりもするんだと思います。

 

若者は経験を軽んじ、

年寄りは経験に重きを置きすぎる。

 

常々、自身にそう言い聞かせているものの、なかなかどうして「知っていること」と「知らないこと」の狭間で揺れ動いています。


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若いときから、分からないことはよく分かっているひとに聞くようにしてきましたが、「情報革命」以後の世界では「情報」だけがふわふわと飛び回って、その「情報」は信じられるのだろうか?という新しいフィルターが1枚加わっただけなような気がしないでもありません。

 

そういった思いがあるからでしょうか、

「FAKE NEWS!」(もちろん大文字)

と叫んでいたドナルド・トランプ元大統領はまさにこの時代を体現しているひとだなーと思っておりました。

 

不動産投資に関しても、これでもかってくらいに情報が溢れかえっていますが、とても参考になるものから、全くもって参考にならないものまでたくさんあります。

 

以前、知り合いの不動産会社の社長が本を出版したというので読んでみたのですが、正直に言って「この程度の内容の、こんなデカイ文字で書かれた本が」1400円もするんだと大変驚いた記憶があります。(社長、ごめんなさい)

 

もちろん本を出版することによって自社の宣伝にもなったのでしょうが、この「世にいうブランディング」というものにも閉口させられるものがあります。

 

「情報」がふわふわと飛び回っている世界なので、「発信力」がそのまま武器になるのはもちろん理解出来るのですが、その武器もまた世に溢れかえっているので一体どれを手にすればいいんだろう?と、また新たなフィルターにかけなければいけなくなります。

 

結局、知れるチャンスは増えたものの、それを身につけられるチャンスは遠のいてない?と思ってしまうのは、きっと私が歳をとったからなのでしょう。

 

それでも「知らないことは知らない」とちゃんと言えるように歳は重ねていきたいものです。

 

無知の知。(知らないことを知ること)

 

と言ったかつての偉人はやっぱり偉大です。


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